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硫黄島戦史
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| 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃によって開戦した第二次世界大戦 (太平洋戦争)。戦争初期、優勢だった日本軍も米軍の圧倒的な武力のもと次々に致命的打撃を受け 昭和19年8月までにサイパン、グアム、テニアン島などが制圧された。米軍は制圧した地を本拠地に B29爆撃機による日本本土への長距離爆撃を開始。 しかし米軍は、援護機の配備、緊急着陸基地の確保並びに日本軍の交戦阻止と長距離爆撃の効果を あげるため、硫黄島の確保を必要としていた。一方、大本営は島の戦略的重要性を認識し、硫黄島に 栗林中将率いる小笠原兵団第109師団、陸・海軍将兵・軍属・特年兵(少年兵)を含む総数約2万2千923名を 置き長期戦にそなえた。その中には在島民1,100名のうち、約130名が軍属として徴用され、内82名の方が 戦死しています。対する米軍は800隻の艦船、4000機の航空機、総数25万の兵力で硫黄島奪取にかかる。 栗林中将は持久戦にそなえ、島内各所に全長18Kmにも及ぶ地下壕を作りこの戦いに備えた。 昭和20年2月16日から3日間、熾烈な艦砲射撃や空爆が加えられ、19日にはB29爆撃機の大編隊による 空爆と硫黄島沖に集結した艦隊による一斉射撃が全島を襲い、その間、上陸用船艇第一波(約130隻)が 硫黄島の南海岸に上陸した。 |
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| 硫黄島守備隊は陸軍中将・栗林忠道小笠原方面兵団長指揮のもと、海軍少将・市丸利之助第27航空戦隊 司令官と陸軍少将・千田貞季混成第2旅団長は共同して見事な持久戦を展開し、圧倒的な兵力を有する 米軍上陸部隊に多大な損害を与えた。しかし、米軍上陸約一ヵ月後の3月17日、壮絶な戦闘を続けてきた 日本軍は、栗林中将から大本営に訣別の電文を打電し、総攻撃を最後に日本軍の組織的な戦闘は終わるが、 その後、6月末まで日本軍による奮戦は続いた。生還者は僅か1,023名だった。 硫黄島の壮絶な戦いは、米軍28, 686名の戦死傷者と日本軍21,900名の戦死者を数え、今なお多くの 人々の心に癒しきれない悲しみを刻んでいます。 |
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| 昭和19年6月20日、戦車第26連隊牡丹江より硫黄島へ動員下令。硫黄島に向かう第2梯団(主力) 日秀丸は昭和19年7月18日父島北西290kmに於て敵潜の魚雷攻撃を受けて海没した。 その後、島に上陸した補充戦車を含め23輌を以て現地再編す(補充、意の如く成らず)。 それに対し米軍戦車は75ミリ砲装備のシャーマンM4等、計210輌と物量の差を見せつけられた。 後半は歩兵戦闘に移行、肉弾戦により戦車第26連隊の組織的戦闘は3月22日終結した。 |
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