硫黄島戦跡収集品
「四式二十糎噴進砲」靖国神社へ奉納される
|
|
|
|
|
硫黄島戦跡収集品「四式二十糎噴進砲」靖国神社へ奉納される
|
平成15年8月23日、靖国神社において硫黄島戦跡遺品として収集された
噴進砲の奉納式が厳かに執り行われました。
奉納式典は、硫黄島噴進砲委員会主催で行われ硫黄島噴進砲関係者の方々と
硫黄島協会からは遠藤会長、西副会長、安荘事務局次長が参列しました。
噴進砲は硫黄島基地の資料館前に展示されており、赤く錆びて腐朽寸前でしたが
硫黄島噴進砲委員会の皆様が熱心に手入れをされ、立派に復元されていました。
今後は「遊就館」に陳列展示されていますので、是非機会をつくられて拝観される
事をお勧めします。
奉納式典後、参列者は偕行社で噴進砲が靖国神社に奉納された経緯の説明と、
送還・復元に貢献された方々へ硫黄島噴進砲委員長から感謝状が授与されました。
その中に硫黄島に勤務されている硫黄島協会会員の永田常幸氏も含まれていました。
噴進砲の送還に当たっては委員会の皆様はご高齢にもかかわらず、熱心に関係省庁
との調整をはかるなど大変ご苦労なさったとの事ですが、これも戦没者英霊の
ご冥福を心から祈念されているお姿であると思われました。 |
|
|
|
|
|
|
第109師団噴進砲中隊(硫黄島戦闘概況 硫黄島協会編から抜粋)
|
|
胆:
|
18330 横山隊 横山義男 大尉 |
|
編成:
|
昭和19年6月5日 東京赤羽
昭和19年6月28日 横浜出港父島経由
昭和19年7月16日 硫黄島上陸 |
|
総員:
|
51名 戦死:45名 生還:6名 出身地:全国 |
|
位置:
|
南部落東側、玉名山、東山、北部落、大阪山 |
|
戦況:
|
中隊本部は東山に第一小隊を玉名山から南部落にかけ陣地を確保。
29日、米軍南海岸に上陸するや第一小隊は旅団砲兵団の指揮のもと
一斉に射向を南海岸に向け射撃開始、砲の特性を生かして自在に
陣地を変換しつつロケット砲弾を発射し、弾尾より噴射して米軍陣地に
落下する弾丸は心理的恐怖と共に大きな威力を発揮し砲火の中で
最後まで生き残り、大いなる戦果を挙げた。
3月に入り、各砲は殆ど全弾を撃ち尽くし又、米軍の砲迫撃の
集中砲火を浴びるに至り徐々に損害を受け、3月8日、旅団の総攻撃にも
中迫激砲隊と共に支援の後残存者は東山の中隊本部に転進を開始せるも
途中にて米軍と交戦の末、全滅す。
第二小隊 大阪山より北部落に分散配置西海岸及び南海岸に要撃すべく、
陣地を構築す。米軍千鳥飛行場より西海岸沿いに進攻
するや自在に陣地を変換しつつ猛砲撃を加え敵の心胆を寒からしめたが
逐次、3月10日頃には北部落付近まで転進するも弾薬を撃ち尽くして
斬込隊として出撃全滅す。
尚、中隊本部は3月15日頃まで戦車聯隊に合流運命を共にした。 |
|
|
|
|
|
|
この砲は硫黄島で玉砕した小笠原兵団(兵団長栗林忠道中将)に配属された
噴進砲中隊長、(横山義雄大尉)の装備、四式二十糎噴進砲である。
噴進砲中隊は昭和20年2月19日上陸した米軍に対し、甚大な損害を与え
一時その侵攻を食い止めた。全弾撃ち尽くした後も、鹵獲した銃に
よって粘り強く持久戦を続けたが遂に全員散華された。
噴進砲は、砲と名付けられているが実は噴進榴弾(ロケット)の
発射装置である。噴進榴弾は自身の固形燃料で飛翔し、しかも自体の
推力調節により飛距離の調整が出来たので、一般の砲とくらべ射程距離・
命中精度は落ちるが、簡単な構造で、運搬・移動が容易であった。
この砲は戦後、長期間その戦跡に放置され腐朽寸前にあったが玉砕された
硫黄島将兵の慰霊顕彰の象徴とするため、各方面各位の協賛と奉仕により
送還・復元され、靖国神社に奉納された。 |
|
平成15年8月15日 財団法人偕行社
|
|
|
|
|
|
|
「四式二十糎噴進砲(発射筒)」発見の経緯 茨城県支部長 福田昭 談
|
昭和61年6月6日(金)、昭和61年度第一次硫黄島戦没者遺骨収集派遣団の3名(硫黄島協会
乾正位・蔦幸治・福田昭)機械班チームは、重機をもって旧南部落付近に於いて
掘開作業中、3ヶ所の大きくない地下壕を開口し、壕外の地中から噴進砲の発射筒・二十糎
砲弾・その他が出土した。
当時の部隊配置からして、第109師団噴進砲中隊第一小隊のものと思われる。 |
|
|
|
|
昭和61年6月7日
撮影・提供:福田昭
|
昭和61年6月7日
撮影・提供:福田昭
|
|
|
|
|
|
|